赤城山ってどんなところ?

赤城山ってどんなところ?

赤城山れんげつつじの会にて「神宿る 赤城山 地獄めぐり」の展示パネルが作成されました。赤城山の山岳信仰の歴史と縁のある10スポットを紹介しています。

本パネルは赤城山総合観光案内所、県立赤城公園ビジターセンターに展示されています。
PDF版のパネル資料ダウンロードはこちら

神宿る 赤城山 地獄めぐり

古くから山岳信仰の対象となっていた赤城山。

中世ではそういった信仰の対象である山の中に「浄土」と「地獄」が存在するとされ、山で修行する者は擬似的な「死」と「再生」を体験したと言われています。

赤城山でもこのような思想のもと、山麓に住む人々は死者の魂を慰めるために赤城山を登る風習がありました。

パネルでは下記「赤城山案内略図」の一から十の場所について紹介しています。登山ルートに組み込んで赤城山の山岳信仰スポット「赤城山の地獄めぐり」を体験してみてはいかがでしょうか。

全文は赤城山総合観光案内所や県立赤城公園ビジターセンター内に展示されるパネルまたはPDF版のパネル資料にてご覧ください。

地蔵岳

元の名は 神倉山 ほくらやま 神倉は神の ほくら の意

元々は神が赤城山の中心でしたが、仏教の地獄思想が入ってから死者の霊を治める山となり、地蔵岳という名称になりました。

赤城山の中でも地蔵岳は死者の魂が帰る山と考えられていて、旧暦の四月八日には前年に亡くなった人がいる山麓の家の人は必ず地蔵岳に登って、山頂でその人の名を呼びました。名を呼ぶと空のどこかに死者の面影が浮かぶと云われ、盛んに「魂呼び」が行われました。

八丁峠

胸突き八丁から付いた名

大沼湖畔から地蔵岳の裾の胸突き八丁と云われた坂を登った峠。峠に以前は 蒼頭河婆 そうづかばばあ (九、 姥子 うばこ 峠を参照)の石仏が祀られていましたが、昭和47年秋に紛失。

三途の川

赤城山には2カ所ある

現世から来世への死出の旅の途中で渡らなければならない川。

川のほとりの 奪衣婆 だつえばあ 懸衣翁 けんえおう が待っていて、死者の着物を剥がして木にかけ、枝のたわみがおおきければ罪も重いとされ、それにより浅瀬や急流など渡る場所が決められました。

賽の河原

三途の川の河原

親に先立って亡くなった子供の行くところ。子供が「一つ積んでは親のため、二つ積んでは・・・」と石を積みますが、鬼に壊されてしまいます。

一方、親は夜明け前に、亡くなった子どもに会うため賽の河原に行き、子どもに代わって石を積んだそうです。

ガキボッタ

賽の河原の一部分と考えられる

子供を亡くした親が夜明け前に行くと泥の上に小さな足跡がたくさん残っていて子どもたちの騒ぐ声が聞こえたそうです。

また、餓鬼が食べ物を探して掘ったぬかるみとも、子供が泥を掘って遊んでいた所とも云われています。

血の池

水の色が赤く染まることによる

小沼火山の小爆発によって形成された凹地で、雨量によって池の大きさが大きくなったり、干上がって小さくなったりします。

雨量が増えるとヤマヒゲナガケンミジンコが大発生して、水が褐色に染まり、また秋には紅葉が池に映って赤く見えます。

地獄谷

地獄を思わせる景色から付いた名

周囲が石ばかりでこの世と思えない凄惨な景色だったので名付けられ、この世で良いことをした人は地蔵岳に登り、悪いことをした人は地獄谷に突き落とされるとのことです。

地蔵岳の下で、かつてここに地蔵鉱泉がありました。

テンヤバ坂

テンヤ坂、天狗坂とも云った

荒山は赤城明神が一番先に住んだと云われる山で、その頃赤城明神の家来の杉の坊という大天狗が住んでいました。その天狗が荒山から飛んで来てテンヤバ坂で天邪鬼(妖怪)などと遊んだそうです。

この天狗とは、山岳信仰の宗教家 修験の人であると思われます。

姥子峠 うばことうげ

オバコ峠とも ウバコとは奪衣婆のこと

姥子峠 うばことうげ とはオバコ(蒼頭河婆、葬頭河婆、正塚婆とも云う)のいる峠という意味で、蒼頭河婆の石仏が置かれていました。

蒼頭河とは三途の川のことで、船ヶ沢の上流と小沼の下流の二ヶ所にあります。

姥子峠を超えると急に天国のような広々とした所に出ます。

六道の辻

この世とあの世の境の辻

赤城山の西方からの登山道で、昔は6本の道が集まる場所でした。ここには六地蔵の石仏があります。この辻には死んだ子供のために石を積む習慣があり、そんな石積みが昭和の頃まで見られました。

六道の辻を超えると姥子峠に出ます。

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